夜遅くに、コンコンと玄関の戸を叩く音を聞いた。
枕元の時計を見れば、既に午前一時を回っていた。
ベッドに横たえていた体を起きあがらせ、緩慢な動作で玄関に向かう。
ドアスコープを覗くこともしない。
薄い扉の向こうに誰が立っているか、何となく予想がついたからだ。
チェーンも外し、鍵を開ける。
ゆっくりと押し開く。
「・・・・・・やぁ」
予想通りの人が、そこにいた。
アルコールの匂いがする。
それから、香水の臭いも。
「何しに、来たんですか」
私はあからさまに不機嫌な声を上げた。
不機嫌になったって良いはずだ。
こんな時間にいきなり訪ねてくるんだもの。
「君に逢いに来ただけだよ」
「私は・・・・・・逢いたくないです」
「なら、開けなければ良かったんだ」
「・・・・・・・・・」
正論すぎて、私は言葉が続かない。
「入るよ」
「・・・・・・嫌だって言っても入るくせに・・・・・・」
「まぁね」
私を押し込めるようにしてヒバリさんが入り込む。
ヒバリさんはもたれ掛かるように私を抱きしめた。
必然、私はヒバリさんの衣服に顔を押し当てることになるわけで。
一際臭いを強く感じた。
「・・・・・・この臭い、私嫌いです・・・・・・」
香水と入り交じって、別の臭いもした。
「・・・・・・そのまま来たから」
「ヒバリさんは無神経です」
嫌悪感すら抱く。
両手を突っぱねて距離を取ろうとしたら、殊更力を込めて抱き寄せられた。
「離してください」
「嫌だ、離さない」
「ヒバリさんは身勝手過ぎます」
「知ってる」
身勝手だ。
本当に。
こんな夜遅くに押し掛けて。
私が嫌だと言うことをして。
あまつさえ、他の女の臭いを付けてきて。
ヒバリさんは香水など付けない。
だとすれば、漂ってくるのは移り香だ。
これだけ臭いが移るような行為。
子供じゃないんだからそんなの想像つく。
「・・・・・・ヒバリさんのバカ・・・・・・」
私には、絶対に手を出さないくせに。
「バカで良いよ」
他の女の所に行って。
思うままに欲望をぶつけ。
その余韻が引くよりも早くにベッドを後にする。
そうして私の所に来る行為を、バカと呼ばずになんと呼べばいい。
臭いも、行為の痕も、何もかもそのまままに私の元に来る精神を、バカと言わずになんと言えばいい。
「君じゃなくちゃ、ダメなんだ」
私以外の所に行った足でよく言う。
──いや、真意はわかっているけれど。
それでもやっぱり、私はこの臭いが嫌だ。
体を押し退けるのを諦める。
どう足掻いても私の腕力ではかなわないことはわかりきっていた。
ハァ、と小さくため息。
「そういう台詞は、せめて臭いを落としてからにしてくれません?」
「ん」
ヒバリさんは身を屈め一瞬逡巡し。
「・・・・・・怒りそうだからやめておく」
「賢明な判断ですね」
そのままキスでもしてこようものなら、私はきっとヒバリさんの舌を噛みちぎっていたに違いない。
ヒバリさんが苦笑して見せた。
狭い室内を移動して風呂場へ。
脱衣所なんて無いから、適当に脱いで放った。
「君も入るの?」
「ヒバリさんに付いてた臭い、私にも移りましたから」
「まぁ、良いけど」
コックを捻る。
水がお湯に変わり、冷えていた浴室が蒸気で満たされるまで一分ほどだろうか。
それまでの間はお互いタオル一枚挟まぬ姿を電光の元に晒すことになる。
「・・・・・・私には、ヒバリさんの基準がわかりません」
「そう?」
バスタブの縁に腰掛け、ヒバリさんを眺める。
視界は大分曇ってきた。
それでも視界が利かないというほどではない。
直視すれば局部だってはっきりと見えるだろう。
「至極単純だと思うけど?」
熱いお湯を頭から被る。
シャンプーでガシガシ頭を擦り、勢い良くそれを流す。
私はただ、その様子を眺める。
「こうして裸で向き合うことはいいんですか?」
「別に。いいんじゃない?」
「触るのは?」
「問題ないよ」
「じゃぁ・・・・・・」
蒸気で霞んでいく向こうに見つけたものに手を伸ばす。
「キス、するのは?」
「場所によっては許容範囲」
「そうですか」
見つけたソコに唇を落とし、チゥと吸い上げた。
誰かが触れた後だと思うと吐き気がしたが、そのまま放置するよりも精神的に幾分マシだろう。
「っ、・・・・・・・・・なに?」
「痕、付いてたから。こんなの残されるなんて、ちょっと気を抜きすぎ何じゃないですか」
「否定はしないよ。いろいろ限界だったし」
「・・・・・・」
私には分からない。
「触れて、キスもして、なのに、なんで・・・・・・」
「・・・・・・ピン」
「私で良いじゃないですか」
それですべて丸く収まるのに。
綺麗に解決するのに。
そうすることを、そうされることを私は望んでいるのに。
なのに、なんで・・・・・・。
「私を抱いたら、それで良いじゃないですか」
「ピン」
「なんで、我慢なんてするんですか」
「ピン」
「私が良いと言っているんだから、合意の上じゃないですか。他に何の問題があると言うんです」
「僕が、決めたんだよ」
「何を?」
浴室はすっかり蒸気で満たされた。
自分の手先すら良く見えなくなる。
そんな中でも、睫の一本まではっきりと見えるほどの距離に顔が寄せられた。
嗅ぎ慣れた、ヒバリさんの匂いがした。
「僕は決して、君を抱かないってね」
ヒバリさんはその言葉を私の体内に落とすように、低く囁く。
「!・・・・・・っ、ん、ふ・・・・・・っ!」
シャワーが頭を叩く。叩く。
ただでさえ息をしにくいのに、輪を掛けて口を塞がれてしまえばなおさら呼吸はままならず。
けれど、私はヒバリさんを拒むことなんて出来なくて。
いっそ、このまま死んでしまえたらなんてことを考えた。
ようやく解放され、酸素を取り込むべく胸を大きく上下させるが、温まった空気は少しも酸素の味がしなくて息苦しさが続く。
頭の芯がクラクラした。
「だから、あんまり煽るようなこと、言わないでよね・・・・・・」
浴室にヘたりこむ私の体を支えながら、ヒバリさん。
裸で体を寄せ合って、それでもこの人は平静を保とうとする。
保てなければ他の女の所にいくだけだ。
あぁ、それって。
(すごく不毛な行為だわ)
私が迫れば迫るほど、ヒバリさんは他の人の所に行ってしまうのだから。
そして。
熱だけ吐き出して、その残滓残る体で平然と私の所に帰ってくる。
私の胸が痛むだけの行為。
「手を出してくれない、ヒバリさんが悪いんです」
「手なんか出さないよ。これからもずっと」
「意地悪」
「何とでも。散々待たせた君が悪い」
「だから、私は良いと言っているのに」
「その言葉が、もっと早くに聞けたら良かったんだけどね」
ボゥとのぼせる私を見て、ヒバリさんは浴室の戸を開けた。
冷たい空気が流れ込む。
ようやく、肺に酸素が流れ込んでくれた気がした。
荒くなった息が落ち着くと、ヒバリさんはもう一度唇を落とす。
酸素は、ヒバリさんと同じ匂いがした。
ヒバリさんは、酸素と同じ味がした。
この匂いは、味は、私を生かすモノ。
失えば、きっとたやすく私は死んでしまうだろう。
それはヒバリさんにとっても同じこと。
ヒバリさんにとって、私が何と同じかまでは知らないけれど。
(“私”を失えば、ヒバリさんもたやすく死んでしまうに違いないわ)
私がヒバリさんを生かし、ヒバリさんが私を生かす。
相手がいなければ生きていくことも出来ない。
依存といえば、きっとそうなのだろうけれど。
どうにも自分たちにはそんな甘い言葉が似合わないように思える。
(──そう、依存というよりもむしろ・・・・・・)
脅迫。
そう言った方がしっくりくる。
互いの心臓を握り合う関係。
「・・・・・・私たちには、それくらいがお似合いなのかもしれませんね・・・・・・」
「何の話?」
「ただの独り言です」
私は、酸素に向かってそう言った。
influential
以前に上げた『私を取り巻く、酸素のような』の続きに当たる話です。
読んでなくても話は通じるとは思いますが、一応。
前作の時では性の衝動を感じなかったピンが、ようやく衝動を覚えるようになったのに
今度はヒバリの方がさんざん待たされた腹いせに嫌がらせでしてやらないでいたら
それ以上の興奮の仕方を覚えてしまったヒバリさんの話でした。
ヒバリさんの名誉のために付け加えますが、ピン相手に勃たない訳ではないです。
2012/03/30
※こちらの背景は
NEO-HIMEISM/雪姫 様
よりお借りしています。