冷たい滴が頬を叩く。
ぐずぐずとくすぶっていた空がとうとう零ぼし始めた。
特に何を思うでもなく灰色の空を仰ぎ見る。
どんより厚い雲は、一時もしないうちに本格的な雨を降らせることを物語っていた。
冬の雨は冷たい。
体を芯から震え上がらせるほどに、冷たい。
わかっていて僕は足を止めた。
冷たい。
だが、───ただそれだけだ。
溶けてなくなるわけじゃない。
流れて消えるわけじゃない。
冷たいというただそれだけを、どうしてこの僕が怯えるように避けなければいけないと言うのか。
「───だから、いらないよ」
正面に対峙した相手の顔も見ずに言い捨てる。
「・・・・・・・・・だめですよ」
いかにも少女然とした声。
否。
対峙しているのは、まごう事なき少女だ。
か細い肢体に、白い肌の、ごくありふれた少女。
黒々とした豊かな髪を二本の三つ編みに結わえた少女。
少女は困ったような表情を浮かべて笑った。
ぽつりぽつり、冷たい雨が少女を叩く。
衣服が雨粒を吸っていくことを構いもせずに。
僕に向かって差し出した傘を、引こうとはしなかった。
「何やっているの?」
「ヒバリさんが、濡れるから」
「濡れているのは君の方だよ」
「私は・・・・・・ほら、もう、いいんです」
なんて、自己完結。
やっぱり、困ったように笑った。
「でも、ヒバリさんはダメ」
「身勝手」
「なんとでも」
無意味なやりとりの間も、雨は少女を叩く、叩く。
少女が差した傘は僕の頭上に陣取り、僕を雨から守るばかり。
少女を守る役目を完全に放棄していた。
「肩、冷やしちゃダメですよ」
「アスリートじゃあるまいし」
「同じですよ。アスリートも貴方も。プロなんだもの、ほんの僅かなパフォーマンスの差が命取りになるんです」
「・・・・・・命取り、ね」
それは、文字通り『命取り』だ。
前者と僕とではその意味は違うにしても。
「だから、それは君も同じだろ?」
少女は拳法家だ。
生まれてからのほとんどを拳法と、そして殺しに生きた。
少女のそれは、もはやアーティストの域に近い。
この世界に足を踏み入れて数年足らずの僕と比べるまでもなく、少女はプロだった。
精緻を極めた技は、芸術としか呼びようがないくらい、プロ、だった。
「私はもう、違います」
雨が少女を叩く、叩く。
「かつては確かにそうだったかもしれないけれど」
冷たい滴は少女の頬を伝って地面に落ちる。
「私はもう、ただの一般人です」
「僕は認めてない」
「ヒバリさんが認めようと、認めまいと、それが私の意志」
お別れです。
少女は告げた。
貴方の居るこの世界に生まれたことを、私は感謝します。
貴方の居るこの時代に生きれたことを、私は感謝します。
──と。
「ありがとうございました。ヒバリさん」
少女は手にしていた傘を、僕の手に無理矢理握らせる。
一歩後ろに下がり。
深々と、頭を下げた。
顔を上げると、少女はやはり困ったような笑みを浮かべて。
それでもきっぱりと。
「さようなら」
決別の言葉を口にした。
迷い無く。
振り切るように。
少女は踵を返す。
僕に背を向け。
無防備に背中を晒す。
「──そんなことが」
今更。
僕から逃げることが。
許されるとでも思っているのか。
傘を放り出す。
手を伸ばす。
水を蹴る。
手を、掛ける。
雨が僕たちを、叩く、叩く。
「──ダメじゃ、ないですか・・・・・・」
そんな手つきじゃ、小娘一人殺せませんよ?
僕の手の下で、少女が喉を震わせた。
緩やかに絞める指先の下に、少女がまだ生きているという拍動を捕らえていた。
「だから、言ったんです。肩を冷やしちゃダメだって・・・・・・ヒバリさんはもう、プロなんだから」
「ふざけないでよ・・・・・・」
「軽蔑してくれても構いません。それでも私は、これが最善だと思うんです」
貴方の選んだ道は、こういう道なんです。
「さぁ、ヒバリさん。最後の選択の時です」
私を殺して修羅に落ちるか。
私を殺して道を正すか。
「私にとっては、ヒバリさんの最初の人間になるか、最後の人間になるか。その程度の違いでしかありません」
雨が叩く、叩く。
「──決断を」
凛とした少女の声。
そこには迷いも恐れも何もない。
対峙した現実と。
選び取った確かな未来を見据えていた。
少女はどこまでもプロだった。
少女はどこまでも芸術だった。
あぁ。
そうか。
くすぶっていたのは、僕だった。
怯えるように逃げ続けたのは、僕だった。
逃げ続けた結果、僕は少女を殺すしかなくなってしまった。
戻ることも、逃げることも許されないところにまで来てしまった。
「ごめん・・・・・・ピン・・・・・・」
掛けた指に力を込める。
「いいんですよ、ヒバリさん・・・・・・」
少女は僕の手にそっと自分の手を重ねた。
「ごめん・・・・・・」
くすぶっていた雲がとうとう零ぼす。
冷たい滴を、零ぼす。
雨が二人を叩く、叩く。
borderline
雰囲気のアレ。
強い奴と戦いたいというだけの理由で、不用意に裏の世界に足を突っ込んだことを後悔すればいい。
それも、選んだのではなくふわふわと流されたことを後悔すればいい。
安易な判断によって大切なものを失う辛さを味わえばいい。
イーピンはそれを何度となく説明してきたのに、ヒバリは聞く耳持たずで。
命を途して最後の判断をさせることを選んでしまったイーピン。
お互いに間違ってしまった結果。
結局行き着くところまで行き着いてしまった二人の結末。
そんな話。
雰囲気のアレだからあんまり深く考えちゃダメ。
2012/02/06
※こちらの背景は
NEO-HIMEISM/雪姫 様
よりお借りしています。