閉店時間が後五分と迫ったホワイト薬局。
最近急に気温が下がったせいかお客が増え、今日も一日息付く暇もないほどの忙しさだった。
とっぷりと暮れたお店の外は静かなもので、どうやら飛び込みのお客も無く閉店を迎えられそうだ。
お店を閉めてしまえば残りの仕事は後片づけだけ。
処方箋の整理、レセプトコンピューターのバックアップ、使用した器具の洗浄、こんなところだろうか。
頭の中で手順を反芻しながら終わりの時を待つ。
すると、ふいに入り口の自動ドアが開く。
こんなぎりぎりにお客さんだなんて・・・。
時間は閉店一分前、文句は言えない。
できる限り疲労と不満を押し隠して私は顔を上げた。
「こんばん、は───」
え?と思考が一瞬停止した。
自動ドアのところに立つ男は、ひょろりとした長身にボサボサ頭。
そんな男、一人しか知らない。
「タタルさん・・・?」
「よお」
緩慢な動きで片手をあげて、素っ気のない挨拶。
「どうされたんですか」
「たまには夕飯でも一緒にどうかと思ってね」
「・・・え・・・?」
あまりにも珍しい申し出に言葉を失う。
自分は今何を聞いた?
何の冗談だろうと思ってしまうのは決して自分がひねくれているからではない。
そりゃぁ、ごくたまに、それも前触れ無く唐突に「飲みに行かないか?」と誘われることはこれまでにも何度かあった。
でもこんな風にわざわざ薬局にまで足を運んでくることなんて無かった。
本当に、どういう風の吹き回しだろうか・・・?
・・・実はこの人も季節の変わり目、病邪に犯されて・・・・・・
「・・・・・・さりげなく失礼なことを考えていないか?」
「い、いえっ!?」
思わず上擦った声が静かな薬局内に響いた。
顔には出していないつもりだったのだけれど、まるで心の中を読まれているようなタイミング。
もしかしたら言った当人ですら同じように考えていたのかも、と思う。
「あ・・・でも、私まだ処方箋の整理とか後片づけが残って居るのでしばらくお待たせしてしまうかと・・・」
「それなら問題ないぞ、奈々くん」
絶妙のタイミングで店の奥から顔を出したのはモアイ像のような顔をした男、外嶋だった。
鼻歌混じりに歩み寄ってきて、まるで彼の大好きなオペラでも歌い出しそうな程に浮かれている。
「やぁ桑原」
「・・・・・・どうも」
私の時よりも明らかにワントーン低い、素っ気のなさ過ぎる挨拶。
しかし外嶋は気分を害すどころかより一層楽しそうに笑うばかりだ。
「わざわざ悪かったな。店まで持ってきてもらって」
「そう思うなら二度と頼まないでください」
手に下げていた茶封筒を押しつけるように外嶋に手渡した。
ちらりと覗き込み、お目当てのものがそこにきちんと収まっていることを確認すると、まさに外嶋は歌いださんばかりの喜びを露わにする。
「何ですか?それは」
「オペラのパンフレットだそうだ。うちの店長の奥さんから外嶋さんにと頼まれた」
「それであの喜びようなんですね・・・」
言われてみれば納得の理由だ。
それにしても、なんだろうこの虚脱感は。
バカ正直にタタルの台詞を信じた自分がバカみたいだ。
夕飯を誘いに来た?
そんなことあるわけが無かったのだ。
結局は、お使いのついで。
立ち寄ったついでに誘いに来た、の間違いなのだ。
当たり前よ。
だって私達は別にそういう間柄じゃない。
ただの同業者で、ただの先輩後輩で。
その程度の関係でしかないのだから。
タタルの誘いに素直に喜んだ自分に落ち込み、心の中でがっくりと肩を落とした。
「奈々くん。今日はもう上がっていいよ」
「え?」
「桑原と出掛けるんだろう?」
「あ・・・えっと・・・でも・・・・・・」
「後のことは私が責任を持ってやっておくから心配無い。元々それが条件だ」
「・・・条件・・・?」
話の流れが掴めずに首を捻る。
「それを運ぶ代わりに、外嶋さんが残こり業務をする。急いで来たのに待ちぼうけを食らうのはいささか間抜けだからな」
「・・・はぁ・・・」
わかるようなわからないような理由を説明されても、余計に首を捻ることしかできない。
私の知らないところで勝手に話が進んでいくのはいつものことだけど・・・なんて、そんなことに慣れてしまっているのもどうなのだろう。
とりあえず理由も良くわからないまま、本日の業務は終了となり、外嶋に急かされるまま帰り支度を始めた。
手にしたパンフレットがよほど嬉しかったのか、お店の方から外嶋の歌声が聞こえる。
きっと閉店業務なんてかけらも進んでいないに違いない。
本当に大丈夫かしら?と不安をよぎる。
やっぱりタタルさんに少し待ってもらって私がこなした方がいいのかしらなんて考えつつも、無意識の内にいつもより念入りに髪型を整えている自分がいた。
□ ■ □
「お待たせしました」
「じゃぁ行こうか」
外嶋への挨拶など無く、さっさと店を出ていってしまうタタル。
あわてて頭を下げて私も後を追った。
「外嶋さん、後お願いします」
「あぁ楽しんできたまえ」
その表情まで確認する余裕は無かったが、心なしか楽しそうな声だったような気もする。
店の外には車が一台止まっていた。
以前にも見たことがある車だ。
「・・・これ・・・タタルさんの・・・?」
「どうかしたか?」
ごく当たり前の動作でキーを差し込みロックを外し、タタルは運転席に座る。
食事に行くと言っていたからてっきり移動は電車かタクシーと思っていただけにこれは意外だった。
勧められるまま助手席に腰を下ろす。
「今日は車で来られていたんですね」
「行き先が少し遠いからな。交通の便もあまりよくないからこっちの方が面倒がない。帰りが少し遅くなるかもしれないけど構わないか?」
「え、えぇ。明日はお休みの日ですし、多少遅くなっても問題ありませんけど・・・・・・」
思わず面食らう。
立ち寄ったついでの誘いにしては少し周到過ぎる気がする。
だいたい、わざわざ車で来ているのだっていつものタタルからは考えられないことではないか。
「・・・・・・一応断っておくが、頼まれ物の方が“ついで”だぞ?」
驚いた私の表情から思考を察したのか、眉をひそめて訂正をされる。
やだ、私って考えていることが顔に出やすいのかしら・・・?
すっかり考えが読まれてしまっていることに赤面。
しかし、それが恥ずかしさだけから来るものではないことも頭の片隅で理解している。
素直に嬉しかったのだ。
この人がわざわざ私を誘うためだけに薬局に足を運ぼうとしてくれたことが、ただただ嬉しかったのだ。
「では行くとしようか」
「・・・・・・はい」
静かに車を発進させた。
タタルは「場所が遠い」と言っただけで明確な場所は告げていない。
行き先がわからないことも含めてドキドキする。
はっ!と気がついて携帯電話に手を伸ばした。
帰りが遅くなることをいちいち報告する年でもないが、同居している妹には流石に知らせておかねば心配するだろう。
もしかしたら夕飯を作って待ってるかもしれないのだし。
「タタルさん。ちょっと沙織に電話してもいいですか?」
「構わないよ」
断りを入れてから短縮ボタンで呼び出す。
五度目のコールで応答があった。
『もしもし?お姉ちゃんどうしたの?』
「沙織、あなたもう家帰ってるの?」
『今帰ってるとこ』
「そう、よかった。私ご飯食べて帰るから私の分いらないからね」
『え?そうなの?じゃ、あたしもどこかで食べて帰ろうかなぁ』
「もしかしたら帰りも遅くなるかもしれないけど心配しないでね。先に寝てて構わないから」
『ん・・・・・・?ははぁ〜ん、さてはタタルさんと一緒なんでしょ?』
「!?な、何でそれを・・・っ!?」
『やっぱり〜。な〜んとなくお姉ちゃんの声が嬉しそうだったからもしかして・・・と思ったんだけど』
「うそっ!?」
私ってばそんなあからさまに声にまで出ているの?
ちらり横目にタタルの姿を確認する。
・・・・・・じゃぁもしかしてタタルさんにも気づかれてしまっているのかしら・・・・・・?だとしたら恥ずかしすぎる・・・!!子供みたいにはしゃいで、だとか思われているのでは無いだろうか。
『ま、それは冗談だけどね。強いて言うなら女の勘って奴?』
「・・・・・・」
質の悪い冗談に言葉もない。
本当に心臓が止まるかと思ったわ。
『それよりお姉ちゃん。ちょっとタタルさんに代わってよ』
「どうして?」
『いいからいいから』
「もう、あなたって子は。変なこと言わないでよ?」
『わかってるって』
一旦電話を耳から離す。
「あの・・・沙織がタタルさんに代わって欲しいと」
「ん?」
運転中なのでこちらを見たりはしなかったが、思い当たる節でもあったのか「あぁ!」なんて一人で勝手に納得して手を差し出してきた。
そうなれば私も渡さないわけにはいかない。
タタルは片手でハンドルを操りながら電話を耳に当てる。
「久しぶりだな」に始まって「まぁ、そんなところだ」だとか「・・・それは俺一人で決める問題ではないからな」とか「・・・肝に銘じておく・・・」とか。
挙げ句の果てには「沙織君、君はどんどんオヤジ臭くなってやしないか?」とか。
・・・・・・一体なんの話をしているのだろう?
狭い車内とはいえ、耳をそばだてても流石に電話の向こうからの声までは聞こえそうにない。
最終的に「あぁ、わかっている。じゃぁな」といって電話が返ってきた。
どうやらまだ繋がっているようで、
「沙織?あなたタタルさんに何を言ったの?」
『ひ・み・つ〜!じゃぁねお姉ちゃん。タタルさんと楽しんできてね〜』
「あ!?ちょっと?沙織っ!?」
楽しそうな笑い声とともに、一方的に通話が切られてしまった。
「もぅ・・・あの子ったら・・・。あの、タタルさん。沙織が何か失礼なこと言いませんでした?」
「いや。特には」
「ならいいんですけど」
「強いて言うなら『朝帰りくらいしてこい』かな?」
「なっ・・・・・・っ!?」
あの子は何言ってるのよっ!
よりにもよってタタルさん相手にそんなことを言うなんて!
「・・・・・・それでも俺は構わないけどな」
「え?」
「さて、奈々君。腹は減っているか?」
何かとんでもないことを言われた気がしたのだが、聞き返すよりも早く、タタルはさらりと話題を変えてしまう。
頭の片隅に疑問をさておき、お腹をさすってみた。
空いていると言えば空いているが、まだそこまでではないといったところだろうか。
「え、・・・えぇ?ちょっと小腹が空いてる、かな・・・?」
「ならもう少し行ってから夕飯にしようか」
「?どこかお店を決めてあるんじゃないんですか?」
「目的地はまた別だ」
「タタルさん、今日は一体どこに・・・?」
「秋の七草を見に行こうと思ってね」
□ ■ □
車で走る間は恒例となりつつある、タタルの蘊蓄語りの時間だ。
主に今回は『秋の七草』について。
七草と言えば真っ先に思い浮かぶのは春の七草──セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ。
正月七日の朝にそれらを刻んだ物を加えたお粥を食べることは世間一般に知られている。
だが、元来七草と言えば秋の七草──オミナエシ・ススキ・キキョウ・ナデシコ・フジバカマ・クズ・ハギを指すのだという。
万葉集に収められた山上憶良の歌により選定され今日に至っている。残暑の頃に花を付け、秋の到来を知らせてくれるものが選ばれたのではないかという説もある。
そしてこれらは春の七草とは違い、食するのではなく見て楽しむものなのだそうだ。
それらの知識を首を縦に振りながら、時には傾げながら聞いていく。
途中休憩がてら食事を摂り、ついいつもの癖でアルコールを頼みそうになるのを堪えた。
昨今飲酒運転の取り締まりは厳しくなっている為、流石のタタルも自粛せざるを得ない。
「君は飲んでも構わないんだぞ?」なんて言われてもタタルさん一人に我慢させて私だけ、という気持ちには到底なれず、顔をつきあわせているにも関わらずアルコールの無い食事を楽しんだ。
そうして車を走らせること約二時間位だろうか。
外灯はおろか、民家の明かりも見えない山道に差し掛かる。
ついぞ対向車も見かけていない。
一体どこまで行くのかと外を見ても暗闇が広がるばかりで、視界は前方に伸びるライトの範囲しかない。
少しばかりの不安がよぎり始めた頃、車が止まった。
「着いた」
車を停車させるや、タタルはさっさと一人降りてしまう。
慌てて後を追おうとするがドアを開けたその先は暗闇で、足下すらおぼつかない程。
踏みだそうとしても足が竦んでしまう。
「・・・っタタルさん・・・っ!?待って・・・っ!」
「慌てなくていい。じきに目が慣れる」
どうしようもない不安から伸ばした手が、暗闇の中でタタルに触れた。
暗闇の中でさえ、その長い睫が確認できる程に近づく。
紛れも無い安堵感から、掴んだ手を離せない。
タタルもそれを振り払おうだなんてしなかった。
「今夜は満月だからな。五分もすれば夜目が利くようになる」
優しく、でも淡々と当たり前の事実を述べた。
それがあまりにもタタルらしくって、逆にほっとしてしまう。
言われて見上げた空には、確かに煌々と輝く月があった。
「・・・・・・綺麗・・・・・・」
「あぁ」
黄色いようにも、青白いようにも見える月。
かつては不吉の象徴とすらされた月。
寒々として、けれども柔らかな光を放つ月。
暗闇を溶かすように、言葉にならない恐怖をも溶かしてしまう。
そういえばいつかタタルは言っていた。
満月は人の理性をなくさせる──と。
昔から男女の逢瀬は月夜に多く行われていた──と。
わからないでもない。
それだけの魔力を月は秘めていた。
タタルの言葉通り、五分もすると辺りの様子がうっすらと見えだした。
「・・・・・・まぁ・・・・・・」
感嘆の声が漏れ出る。
視界に飛び込んできたのはさわさわと夜風になびくススキの群生。
その手前には桔梗の花が月に照らされ青と白のコントラストを作りたおやかに揺れている。
ほのかに香るのは藤袴だろうか。
桜餅の葉を彷彿とさせる香りが風に乗って運ばれてくる。
たしか乾燥したときに初めて香りを放つのだと薬草園見学会で聞いた覚えがあるから、こちらは一足先に見頃を終えてしまったのだろう。
それらすべてが、まるで一つの絵画のように破綻なく情景を構成し、相乗している。
秋は夕暮れと読んだのは清少納言だっただろうか。
確かに夕日に照らされたこの風景も素晴らしいことだろう。
だが月明かりに照らされたこの妖艶な姿は、またそれとは違った魅力だ。
「・・・すごい・・・」
「まさに見て楽しむ、だ。さすがに七草すべてとはいかないがね。もともと七草は開花の時期が若干異なる。一度にすべてを見るのではなく、ゆっくりと移ろいゆくのを酒を飲み歌を読み交わしながら秋の夜長を過ごす、ということだったんだろう」
「えぇ・・・」
「以前ここを通りかかった時も素晴らしい眺めだったが、思った通り月光に良く栄える」
言葉が出てこない。
どんな賞賛も自然の前ではすべて取り作った薄っぺらでしかなくて。
そのような陳腐な代物を欲しているとは到底思えなかった。
「本当にすごいです・・・・・・」
「そう言ってもらえると連れてきた甲斐があったな」
「でも、タタルさんはちょっと残念なんじゃ無いですか?」
「うん?」
「だって、本当はこういう景色を楽しみながらお酒を飲みたかったのでしょう?」
「まぁ・・・・・・な」
いささか歯切れの悪い回答。
「タタルさん?」
「・・・酒は、一応用意はしてあるんだが・・・、そうなると運転して帰るわけにいかなくなる」
えっと・・・
「君が、帰らなくてもいいなら一杯やってもいいのだが・・・・・・」
それって・・・・・・
「・・・・・・どうする?」
ちょっとずるい。
「帰さない」とは決して言わない。
そうやって私に選択を委ねる。
満月は人の理性をなくさせてしまうといったのはあなたなのに。
「・・・・・・帰りませんよ?」
「奈々くん」
「だって、こんなに綺麗なのにすぐに帰るなんてもったいないじゃないですか」
「奈々くん・・・」
「だから・・・」
つ、と手を伸ばす。
近づくことも逃げることもしないあなたの腕にするりと絡ませた。
布越しに感じるあなたの体温が、夜風に冷えた指先に心地いい。
「だから、もう少しこのまま・・・・・・」
これは満月が誘発させる精神の変調。
すべては月のせいにして。
もう少し。
もう少しだけ。
あなたに近づかせて・・・・・・。
月夜の魔力
こんなにも素直にあなたを求められるのも。
あなたが私を求めてくれたのも。
すべて。
すべて。
────月夜の魔力
相互記念にsuze様に贈らせて頂きます。
こんな駄文ですが良かったらお受け取りくださいませ。
数は少ないQEDサイトですが盛り上げるべくお互い頑張りましょう!
これからもよろしくお願いしますね
【block24】さかきこう 拝
2010/11/01
suze様には背景なしver.を贈らせていただきました。
※こちらの背景は
NEO-HIMEISM/雪姫 様
よりお借りしています。