いつものようにカウンターに陣取り、杯を傾ける。
1杯目を空け終わったとき、カランと音を立ててカル・デ・サックの扉が開いた。
頃合かと思ってそちらに目を向ければ、やはり思っていた通りの人物がそこに立っていた。
よう、と声を掛けると彼女もすぐにこちらに気がついたようで、小さくお辞儀を返す。
「お久しぶりです。タタルさん」
「二ヶ月ぶりくらいか」
「そうですね」
俺たちにしては早いサイクルだ。
半年くらい連絡の一本も取らないことはざらだから、まるで昨日もこうして一緒に飲んだような錯覚がある。
が、一般的には二ヶ月というのはそこそこ期間が空いているのだろう。
そして彼女もまた、正常な時間間隔の持ち主であるからして『久しぶりの再会』に少しばかり緊張でもしているのだろうか?いつも通りに俺の隣のスツールに腰を下ろしたが、どこと無く所作がぎこちないように見えた。
「奈々君、とりあえずミモザでいいか?」
「あ、はい」
確認ともいえないような確認を取り、マスターに「ミモザを二つ」と告げる。
「二つ?タタルさんも飲まれるんですか?」
「あぁ、マスターが君が来たなら是非とも一緒に飲むように、と言われたからね」
「それって・・・・」
奈々君はちらりとマスターの顔を窺った。
マスターは意味ありげに一つウインクを返したのだが、それを見て奈々君はうっすらと頬を赤らめて顔を俯けてしまう。
二人の間で何らかの意思疎通があったようだが、俺には何のことやらわからなかった。
「この人は朴念仁ですから」
見るからに色鮮やかなオレンジを絞りながら、マスターが茶化すように言った。
「マスターはご存知、なんですね」
「職業柄、こういうことをテーマにカクテルを作ったりもしますから」
「でも、だからって・・・」
「それでも気がつかないのがこの人でしょう?」
「・・・・・・何の話だ・・・?」
一人会話においていかれること自体は別段どうでもいい事なのだが、己が話題に上っているにもかかわらず置いていけぼりなのはどういうことだろうか。
「奈々君?」
「な、・・・・何でもありませんっ!」
隣に座る彼女に声を掛けるも、あからさまに視線をそらされてしまう。
・・・・・俺が何かしたとでも言うのだろうか・・・・?
「だから、貴方は朴念仁なんですよ」
声には出さず、静かにマスターが笑う。
まったくもって不可解なことだ。
熊の奴にもことある毎に朴念仁と言われている気がするが、胸を張って人並みにとは言えないまでも、それなりに生きてきたつもりだ。なのに何故こんなにも言われなければならないのか。
特に彼女と行動を共にする時にはその頻度がかなり跳ね上がるように感じる。
結論として、俺はそんなにも彼女に対して間違ったことをしているだろうか?
確かに、俺はことあるごとに奈々君は酒豪だと豪語している。
言うたびに「そういうこというのやめてください!」と訴えてくるが、実際彼女はアルコールに強い。
俺と同じくらいか、少し弱いくらいだろう。
嘘はついていないのだから特に責められるような事柄でもない。
事実を事実のままに伝えること大切だ。
もし仮に知らない店で「彼女はアルコールに弱い」などと誤認情報を零そうものなら、気を回しすぎた店員により、巡り逢えた筈の銘酒を逃してしまうかもしれないではないか。
そのような事態を避けるためにも正確な情報の開示は必要不可欠なのだ。
よって、俺がこうして朴念仁呼ばわりされるのはいわれの無いことなのだとココに断言する。
などと思考を回しているうちに、フルートグラスに注がれたミモザが目の前に差し出された。
生のオレンジ果汁で作られたミモザは、実際のミモザの花よりも赤みが強く、黄色と言うよりはオレンジ色を呈する。
グラスの中でシャンパンの泡が静かに立ち上がり、気泡が弾けるごとにオレンジの芳しさが鼻腔を刺激する。
思わず今まで飲まなかったことがもったいないと思うほどだ。
普段飲み慣れている彼女でさえ、ふわりと香るオレンジに顔を綻ばせた。
「なんだかいつもとは少し香りが違いますね。シャンパンだけじゃなくてオレンジも香り立ってる」
「オレンジの産地に併せたシャンパンを使用していますので、より香りが引き立つんです」
今日のために仕入れて置いたんですよ、朴念仁の代わりに、と言葉を続けた。
「?何のことだ?」
「さぁ?」
疑問符を浮かべる俺に、マスターは笑顔で疑問符を返す。
答えを教えるつもりは無いようなので食い下がることなどしない。
酒は美味いならそれでいい。
固執するではなく、フレキシブルに楽しむものだ。
「まぁ、乾杯するとしようか」
「はい」
フルートグラスの脚をつまみ、何に乾杯するでもなく、静かにチン、とグラスを合わせた。
言葉を交わす代わりに、スローテンポなジャズが心地よく店の中を流れていく。
口につけたミモザは普段は余り飲まない甘口を予想していたのだか、程良い苦味とシャンパンが甘ったるさを残すことなくすっと喉の奥へと流れ込んでいった。喉から鼻腔に立ち上がる爽やかな香りが心地いい。
たまには、こういうものもいいかもしれない。
やはりアルコールはフレキシブルに味わってこそ、新たな出会いに恵まれるものだと再確認させられた。
「・・・・・美味しい」
ほぅ、と吐息でも吐く様に奈々君も幸せそうな表情を浮かべた。
つられてこちらまで表情を緩めてしまいそうな、そんな至福の顔。
呼んで良かった、と掛け値なしに思う。
ミモザの美味しさにうっとりとしていたが、はっとして「そういえば」とこちらを向いた。
「今日は、何か御用でもありましたか?」
「いや。何も」
「じゃぁ・・・・」
「俺だってたまには純粋に君を呑みに誘うことだってある」
「・・・ぁ・・・」
驚いたように大きく目を見開いた。
引いていた朱が再び頬に差す。
「―――と言いたいところだが、実は理由はある」
「っタタルさん!!」
スローなジャズには似つかわしくない荒げた声の彼女。
構わずに俺は続けた。
「二月にチョコレートを貰っていたのにお返しをするのを忘れていたからね。一ヶ月ほど遅れてしまったがその埋め合わせだ」
「・・・・そんな・・・お返しだなんて」
「俺も飲みたかったし、気にするな」
「でも・・・・・・」
何もこんな日に・・・・・、と奈々君は小さく零した。
「都合悪かったか?それならわざわざ呼び出して済まなかったな」
「いえ、都合が悪かったわけじゃなくて・・・・・その・・・・」
歯切れ悪く、もごもごと口ごもる。
言いたいことの代償行為なのか、グラスに残っているオレンジの液体をぐるぐると回す。
言おうとしては口をつぐみ、そうすること何度か。
ようやく、一言ポツリと漏らす。
「・・・・・・・・期待、しちゃうじゃないですか・・・・・」
この人にそういう意図が無いことくらい百も承知だが。
でも。
だって。
今日と言うこの日に、わざわざ呼び出されて。
そしてマスターの配慮とは言え、こうしてミモザを差し出されたら。
どうして期待せずにいられようか。
グラスに残ったオレンジの液体を一気に煽った。
そんな呑み方をするにはもったいないくらい美味しいミモザだけれども、タタルさんから贈られた(と思いたい)オレンジを独り占めした気持ちになる。
「顔が赤いがどうかしたか?」なんて無粋なことを言うタタルさんを、マスターはもう一度「朴念仁」と静かに嗜めた。
どうにも納得いかないといった風のタタルさんに、私は持ってきた紙袋を差し出した。
「お逢いするのに手ぶらも何か・・・・と思って、オレンジのマドレーヌを焼いたんです。良かったらどうぞ」
「お返しのつもりだったのに、逆に気を使わせてしまったかな」
「いえ、沙織も食べたがっていたので」
「そうか。ありがたく頂くよ」
きっと意味なんて知らないだろうけれど。
受け取ってもらえればそれでいい。
お互いへのオレンジの受け渡しは成立したのだから。
まるで既成事実だけが先に出来上がってしまったかのような、ちぐはぐな関係に思わず私は笑ってしまった。
□■□
最近新たに見つけた古典の不可解な記述について、ほぼ一方的な話を2時間ほどしたところで「そろそろ電車の時間が・・・・」といって奈々君は席を経った。
せめて駅まで送ろうかとも思ったが、大丈夫です、と半ば押し切られる形で一人店を後にした。
残された俺は、日付が変わった頃になってもまだ一人でグラスを傾けていた。
愛飲のギムレットを口につけながら、「マスター」と小さく声を掛ける。
「なんですか?」
「このオレンジは・・・・・・・そういうことなのだろうか・・・・・?」
「そういうこと、とは?」
「いや・・・・・・だから、オレンジデーということでいいのか?」
「・・・・・・ご存知だったんですか?」
あからさまに驚いた表情で問う。
だから言ったんだ。
俺は朴念仁ではない、と。
ミモザはいつ花開く?
二人は早く互いの恋心を自覚したらいいよ!
ミモザの花言葉は「秘めた恋」とか「プラトニック愛」などがあるらしいです。
花の種類で意味が少し違うみたいだけど。
カクテルとしても、花言葉としても、二人にはぴったりだと思うよ!
2010/04/14
※こちらの背景は
Sweety/Honey 様
よりお借りしています。