ようやく慣れ始めた家路を急ぐ。
(あそこで外嶋さんに捕まらなければ・・・・・・)
胸中で愚痴っても、失った時間は戻ってこない。
戻ってこないとわかっていても、やっぱり愚痴りたくなるのは人の性分だろうか?
仕事の終わりがけ、ついうっかり何かを眺めている外嶋さんに「なんですか?それ」と声を掛けたのがいけなかった。
外嶋さんが眺めているモノなんてちょっと想像してみればわかることだったのに、どうして聞いてしまったのだろうか?
『おや、奈々くんもとうとう興味が出てきたかね?いやいや、言わずとも分かっている。このオーケストラの来日に心ざわめかない者などいないからな』
と、まぁこんな感じで喋りはじめ。
来日するオーケストラ団がどれほど凄いか。
演奏予定の楽曲の構成が素晴らしいだとか。
こちらの合いの手すら挟ませずに喋り続けた。
早く帰りたいのは山々だったけれど、それでも話の途中で勝手に席を外すというのも気が引けるし・・・・・・。
アシスタントにして外嶋の姪子に当たる相原美緒に言わせれば
「そんなもん、テキトーに聞いてテキトーに受け流してさっさと帰っちゃえばいいのに。相手は外嶋さんなんだし」
とのことなのだが。
人をそのようにあしらうことが出来ないのが私、棚旗奈々なのだ。
お陰で、薬局を出るのがいつもよりも1時間以上遅くなった。
冬至を過ぎたとはいえ、季節はまだ冬。
暦の上の春などどこにあるのやらと言った感じで、空はすっかり暗く、昼間の僅かな温もりは消え失せていた。
なんとなしに急ぎ足で歩く。
普段よりも遅い分、気持ちが急いているがそれだけではない。
駅からの道は、街灯こそあるがあまり明るくはない。
繁華街なら人も多い時間だが、ここは住宅街。
帰途のピークを過ぎたためか、今は夜間ウォーキングをしている人をたまに見かける程度しかない。
そんなのも足を早める要因の一つになっていた。
せめて後30分早ければ帰宅ラッシュの波に乗れたのだろうが・・・・・・。
冷たい風がヒュウと首元を撫でていく。
「さむっ・・・・・・」
電車内が温かったので外していたままになっていたマフラーを手早く巻きつけた。
空を見上げれば、葉を落とした街路樹の隙間からいくつか星が光って見える。
寒気と乾燥とで空気が澄んでいるのだろう。
雲はあまり無いようだから、明日はもっと冷え込むかもしれない。
(明日はお昼に温かいスープつけようかしら?)
そんなことを考える。
保温の容器に入れておけばお昼頃まで暖かいし、体の中から暖まる感じがする。
それに、スープくらいの軽いものなら。
「タタルさんも、飲んでくれるかな・・・・・・?」
「何をだ?」
「ふぇっ!?タ、タタルさん!?」
誰もいないと思っていた道上で突然声を掛けられ、変な声を上げてしまった。
慌てて振り返ってみれば、そこにいたのはよく見知った顔。
「よう」
驚いた私とは対照的に、右手をちょっと持ち上げて答えた。
「どうしたんですか?こんなところで」
「外嶋さんから電話を貰ってね」
タタルの左手にぶら下がっていた白いビニール袋がカサリ音を立てる。
「『奈々くんが遅くなりそうだから、夕飯の買い物くらい済ませておく甲斐性を見せて、せいぜい愛想を尽かされないように努力したまえ』という至極要らぬ世話な内容だった」
「まぁ」
「しかし君が遅くなるということは、スーパーの営業時間に間に合うかどうか微妙なところでもあったし、
一度帰宅した後に買い物に出るというのも申し訳なかったから適当に材料を買ってきた」
「わざわざ済みません」
「こっちこそ、いつも任せきりで済まないな」
「いえ、好きですから」
そんなよくある会話を交わす。
ありふれた会話を当たり前に交わせるということは、幸せなこと。
夜風は冷たかったが、胸の真ん中あたりがほっこり暖かくなった。
クスリ、笑みが漏れ出た。
「どうした?」
「いえ、本当にタタルさんと暮らしているんだなぁって思って」
慌ただしく過ぎていった年末が思い起こされる。
一緒に暮らそうと言われたのが11月の半ばのこと。
家が決まったのが12月の中頃。
いっそのことと腹をくくり、年末休み入ると同時に横浜の家を引き払った。
元旦だけ実家に顔を出し、残りの三が日は新居の整理に費やした。
タタルさんは実家に帰る予定もないらしく、代々木の家と新居を車で往復する事に費やしていた。
自分が持ち込みたいのは本と酒くらいだから、業者に頼むよりも早いと踏んだらしい。
実際にそううまくいくはずもなく、すべての本を運び入れた段階で、
「・・・・・・無作為に本を増やさない努力をする・・・・・・」
と言い残して玄関に倒れ伏していた。
広い家に引っ越せたとはいえ、彼の1DKを占有してた蔵書は今の段階でもかなりのもの。
すでに書斎としてあてがった部屋のほとんどを埋め尽くしている。
これまでのようなペースで増えていったらすぐに場所が足りなくなるだろう。
彼自身が増やさない努力をしてくれるのならそれに越したことはない。
結局、正月休みは最低限の生活基盤を整えることだけで終わってしまった。
休みが明ければこれまで通り仕事がある。
その上、新居からは慣れない交通機関を使わねばならない。
路線が変われば、その混雑具合の質も異なってくる。
日々の通勤だけでも疲労が蓄積していた。
帰宅してもゆっくり休める訳ではない。
まだ片づけていないところも多いし、買い直さねばいけないものも多い。
まさに言葉通り、慌ただしく過ぎ去る毎日。
ようやく一息付けたのは、ほんの数日前のことだった。
これまでの数週間は忙しさで気にしている暇も無かったが、心に余裕が出来たことでようやくタタルさんとの生活が始まったことを実感できるようになった。
「ばたばたし過ぎて、ちょっと実感無かったんです」
「落ち着いたのは最近だったからな」
「なんか・・・・・・不思議な感じがしますね」
「何がだい?」
「だって、これまでは数ヶ月連絡がないのが当たり前の関係だったのに、今はこうして一緒に暮らしているんですよ。
でも、それを違和感無く受け入れられて、こうやって並んで歩けて。それが不思議」
「確かに、そうだな」
家へと続く道を二人で歩く。
ほんの1年前では考えもよらなかった光景だ。
胸の奥の方が、なんだか面はゆくなる。
「ところで、材料は何を買ってきたんですか?」
タタルの手に提げられたビニール袋を覗き込む。
「スーパーで鍋物を勧められたから、白菜と葱。魚は鱈にした。後は適当に」
豆腐や白滝が入っているのも見えた。
あとは家にある材料を足してやれば十分だろう。
「そうしたら、水炊きかチゲ風・・・・・・かしら?」
「この前良い日本酒を貰ったんだ。水炊きの方が合いそうだな」
「じゃ、明日の朝は雑炊にでもしましょうか」
「あぁ、頼む」
心なしか、タタルが顔を緩めた。
その理由に心当たりがある。
(やっぱり、本当はお粥の方がいいのね)
朝はお粥と決まっている、と以前のタタルは豪語していた。
だが、共に生活するようになって強制的に一新されることになった。
なんせ、棚旗家は朝はしっかり食べる派。
妹の沙織と暮らしていた時も、朝ご飯を欠かしたことが無かった。
朝食を食べないと一日のエネルギーが生産されないようでエンジンが掛からない気がするのだ。
だから朝の食卓は品数も多い。
ご飯に味噌汁、漬け物、卵に魚、野菜のサラダが付く時もある。
本当はタタルのためにお粥をこさえても良かった。
ところが、年末に実家に帰った折。
『お姉ちゃんはタタルさんのこと甘やかしすぎ!』
と怒ったのは沙織だった。
私自身はそんなつもりもないのだけど・・・・・・。
『もっと先のことまで考えてみてよ?子供が産まれて、朝はお粥じゃないとだめな子になっちゃったらどうすんの?』
それはそれで、問題ないんじゃないかしら?
お粥は確かに消化が良いし、寝起きの胃腸に負担を掛けにくい食べものだもの。
『そんな子になったら、ぜーったい苦労するよ!?お泊まり会や林間学校、朝からお粥が出る可能性なんて限りなくゼロ!!』
言われて見れば・・・・・・それは確かに。
『朝はもりもり食べるに限るの!今のうちからタタルさんを矯正しておかないと間に合わないよ。こーゆーのは初めが肝心なんだから!ガツーンと強気で行かなきゃ!!』
とまぁ、こんな感じで。
同棲が始まった今、朝食は棚旗家仕様となっているのである。
初めは味噌汁に手を付ける程度だったが、次第にご飯も食べるようになってくれた。
流石に魚などには手を付けられないようだったが、徐々に慣らしていけばいいと思う。
こうして強制的に朝食を摂るようになってからは、以前よりも血色が良くなったように思う。
ボサボサの寝癖髪も毎朝根気強くブラッシングしてあげればなかなかの見栄えだ。
久方ぶりに萬治漢方からお使いを頼まれホワイト薬局に顔を出した時など、
『野良犬が飼い犬になったようだな』
などと外嶋さんに揶揄されていた。
何も変わりませんよ、とタタルさんは言い返していたけど、やっぱり変わったと思う。
こんな風に私の帰りが遅くなった時。
きっと以前のタタルさんならどこかにふらっと飲みに行こうと考えたと思う。
それを一人で行くか、私を誘ってくれるつもりなのかは別としても、だ。
わざわざ買い出しをして、誰かの帰りを待って、一緒に食事をする事を優先したりはしなかったと思う。
「何かおかしいことでもあったか?」
「いいえ」
知らずに綻んだ顔をタタルさんに覗かれてしまった。
ちょっと、恥ずかしい。
照れ隠しにタタルさんの腕に自分のを絡ませ体を寄せる。
ビクン!とタタルさんの体が跳ねた。
未だにこういうことに慣れないのはお互い様だ。
三十路を過ぎたアレなのか、往来でこういうことをするののがどうにも照れくさい。
出来るだけ顔を覗かれないように、頭をくっつけてうつむけ気味に話す。
「ただ、幸せだなって、思ったから」
「それは何に対して?」
「タタルさんが変わっていくことです」
「俺が?」
「えぇ」
変化を与えるということは、少なからずそこに関係があるから生じる。
私たちを引き合わせた縁があって。
その縁が色濃くなり。
相手を彩るほどになった証。
「たとえこの先、私たちの関係がどうなったとしても」
なんて言うのは不謹慎かしら?
けれど、思ったまま。
ありのままを。
「私と出逢った縁がタタルさんを変えたという事実はずっと、それこそ一生存在できるから」
どんな些細なことだろうと。
彼が刻む変化は、確かに私が彼の隣に存在していたという証。
「だから、幸せなんです」
今、このとき。
私は貴方の隣にいると実感できる。
ささやかだけれど、何よりも大切な一瞬。
「君は・・・・・・」
「え?」
「・・・・・・いや、何でもない」
何か言いたそうに口ごもったタタルさんを見上げる。
視線がかち合う前にフイとそらされてしまった。
・・・・・・どうしたんだろうか?
考えている間にようやく自宅にたどり着く。
二人で住むにはいささか広すぎる一軒家。
とある条件付きで、ほとんど無料で譲り受けた家。
造り自体は少し古めかしいが、先に住まれていた方はとても大事にしていたのだろう。
沢山の歴史を刻みながらも、目立った傷みは見られない。
引き戸がカラカラと音を立てて迎え入れた。
家の中もそこそこ寒いが、屋外と比べればだいぶ暖かい。
コートをマフラーを外し、代わりにエプロンを手に取り髪をサイドでまとめた。
「すぐお鍋の準備しますね」
「俺も手伝うよ」
同じく上着を片づけたタタルさんが暖簾をくぐって台所に顔を出す。
鍋の準備などいくらも手が掛からないのだが、折角の申し出を無碍にするのも申し訳ない。
タタルさんの買ってきた材料を加味しつつ冷蔵庫の中身を探りながら答えた。
「コンロ下の扉に土鍋が入っているのでそれ出して貰えます?あと、隣の引き出しに昆布があるので塗れ布巾で表面を拭いて置いてください」
あ、煮物にしようと思っていた薩摩揚げがあったわ。
それから残っていた大根も混ぜてしまおう。
人参も入れれば彩りも良くなる。
うん。
大丈夫そうだわ。
ざっくざっくと刻んだ野菜をさっと洗い、昆布を敷いた土鍋の中に並べていく。
他の材料も入れ終えたら水を注いで火に掛けるだけ。
後はゆっくり煮立つのを待つばかり。
お鍋は簡単で重宝するわ。
取り皿やポン酢を準備し、作り置きの常備菜を小鉢に取り分けてしまえばいよいよやることはなくなってしまった。
「他は何かやることあるかい?」
「後は沸騰待ちですから」
「そうか」
塗れ手をタオルで手を拭いつつ、鍋が吹かないか様子を伺う。
フツフツと小さな気泡が浮かび始めた。
そろそろ魚も入れようか、などと考えていたら。
ふわり。
抱きすくめられた。
「た、タタルさん?」
驚いた。
こういうことをあまりする人じゃないから、余計に。
背後から抱きしめられていたので、身を捩って振り返ろうとすると首元に顔を埋められた。
「どうしたんですか?急に・・・・・・」
「君は、俺が変わったと言ったな」
「え?・・・・・・え、ええ・・・・・・」
「そして、それが幸せだとも」
「はい・・・・・・」
「例えばそれが、こういうことだとしても?」
「っ!」
埋められた首筋に、チリっとした一瞬の痛みが走った。
「た、タタ・・・・・・」
「首筋への口付けは執着の意」
傷みの箇所に、今度は優しく唇が落とされる。
熱い何かがねっとりと舐め取る感覚。
唇を這わせたまま、タタルさんは言葉を続ける。
「俺が以前と比べて変化していることは紛れもない事実だ。だが、それが君の望む変化だとは限らないんだぞ?」
言葉が紡がれる度、熱い吐息が産毛を揺らした。
体の力が抜けそうになる。
倒れる前にとその場にへたりこんだ。
膝から崩れないよう、ゆっくりと支えながらタタルさんも後に続く。
「君が思い描いていた男からどんどんかけ離れていくかもしれない。それでも、君は幸せだというのか?」
「どれだけ変わったとしても・・・・・・」
抱きしめられたまま、それでもわずかな隙間を使って上半身を捻る。
そこには困惑した顔のタタルさん。
あぁ、そんな顔しないでください。
「タタルさんがタタルさんだという本質は変わらない。そうじゃありませんか?」
「奈々くん・・・・・・」
「これは、私から」
首をツと伸ばし、タタルさんの首に唇を押し当てる。
「首へのキスは、欲望の意」
うっすらとした記憶ではあったが、確かそんな意味があったと思う。
首と首筋。
どこがどう違うのかと疑問に思ったことがあったから覚えていた。
「どんなタタルさんも見たいという、私の欲。出来るなら、貴方のそばでずっと見続けたいという、私の欲」
これから先どうなるかわからない、なんて嘘。
たった一つの終着点で合って欲しいと思う。
不確定な未来の話だとしても。
確約されたものであって欲しいと、本当は願ってた。
出来ることなら貴方にも、そう思って欲しいと祈ってた。
ただ、貴方の感情を私が決めることは出来ないから。
欲はみんな押し込めていた。
「言われるまでもなく」
もう一度、首筋を舌が這う。
「君を離すつもりなど、毛頭無いよ」
タタルさんが笑う。
執着と欲望。
それはきっとイコールの感情。
私はそんな風に思った。
私と貴方の等式
ちょっといい雰囲気になり掛かっていたところで土鍋が盛大に存在を主張してきた。
ふと我に返った三十路過ぎが二人。
気恥ずかしくなってそそくさと夕餉の準備に戻った。
煮立った鍋を居間に運び、引っ越し祝いにと頂いた上物の日本酒で乾杯。
鍋の中身を半分ほどさらったところで、タタルさんが意を決したように切り出す。
「・・・・・・正直、誰か一人をこんな風に想うことなど無かったし、自分とは無縁のことだとばかり思っていたからどうしていいのかわからなかった・・・・・・」
「まぁ、嘘ばっかり」
「嘘なものか」
「五十嵐先生。初恋の人だったのでしょう?」
「先生は・・・・・・多分、違うんだと思う」
思い返してみればあれは。
恋慕というよりも。
「一人の知識人として、尊敬していたんだ」
恋していたと言うのならばきっとそれは。
「先生という人間ではなく、先生という知識に魅せられていた。そんな気がする」
是が非でも手放したくないという焦がれを覚えたのは君が初めてだ。
そう言って、タタルさんは何度目かの口付けを落とした。
1月20日開催のエメジャーチャット会(違www)にて開かれたちゅー祭り用として捧げる。
チャット主催の私が大遅刻ですみません^^;;
「チュー」っていうか「ちゅー」な感じ。
何となく漂う「ちゅー」のニュアンスを感じてもらいたい!
ちゅー祭りでは部位『首筋』を奪取しました!
首に顔を埋めるようにするちゅーが大好物なのですうへへへへ
ちゅー要素は若干薄いけど、考えてみればエメジャー祭りの時も私こんな感じだった!反省!
さりげなく、お話は以前にあげた「stir」の内容を引き継いでいます。
もし読まれていない方がいましたらそちらも読んでいただけると、同棲する事になった下りが分かりやすいかもです。
そんなこんなで、このお話は第二回エメジャーチャット参加者の方に限りお持ち帰り自由です。
チャットへの参加、本当に本当にありがとうございましたー!!
2012/01/31
※こちらの背景は
clef/ななかまど 様
よりお借りしています。