「      」
「・・・・・・ハイ」

ずっと待ち望んでいた言葉を貰ったあの夜。
いつもなら滔々と語られる蘊蓄話が繰り広げられるカル・デ・サックのカウンターで、珍しく私たちは言葉数少なく過ごした。
私たちの間の事象を察したのかどうかはわからないが、マスターは優しく微笑んでいた。
グラスが空いてもあえて声をかけず、磨き尽くされたグラスをなおも磨きあげることに専念していた。
もしかしたら私たちがどうするのかを楽しんでいたのかもしれない。

だとしたら、マスターも悪い人。

私たちと来たら、今更何を喋っていいのかわからずにただただ押し黙ることしか出来ないで困っていたというのに。
こんな時に限って、カル・デ・サックには私たち以外の客の姿は見えない。
マスターが傍観者を決め込む以上、他者の介入は望めない。
つまり、いい大人なんだから自分たちでどうにかしなさい、ということなのだろう。
全く持ってその通りなのだけれど、いい大人だからこそどうしたらいいのかわからなくなる時だってあるということを察して欲しい。
ゆったりと流れるスローテンポなジャズに反比例するかのように、心臓は早鐘を打ち、とてつもない緊張を強いられる。

きっとそれは、タタルさんも同じだったのだと思う。

横目にちらりと覗いたタタルさんは、グラスを持ち上げ、口を付けようとし、そして思い止まってテーブルに戻す、そんな動作を何度となく繰り返していた。
普段であれば、考えごとをしながらグラスをグイグイ開けていたはずだ。
口を開こうにも、言葉が出ない。
いつも私たちの間の沈黙を満たしていたのはタタルさんの喋りで、私ときたら時々相づちを打ったり、素朴な疑問を投げかけたり、その程度しかしていなかった。
改まってしまうと、会話というものはとても難しいもののように思えてしまう。
何より、唇が乾いて上手く口が回りそうにない。

唇を湿らせるべく、私はミモザの注がれたフルートグラスの脚に手を掛ける。
オレンジの香り豊かな、それでいてシャンパンの弾ける清涼感がほんの少し私の思考を整然としてくれるに違いない。
だが、大分ぬるくなったミモザは期待の半分も私をすっきりとはさせてくれない。
それどころか。

「・・・・・・奈々くん」
「はっ!ハイ!?」

唐突に掛けられた声に動揺し、手を滑らせてしまう始末だ。

──パリン

薄いグラスはテーブルに当たった衝撃でたやすく割れてしまった。
中身のオレンジ色の液体はテーブルから勢い良く私の膝にこぼれ落ちる。

「きゃっ!」
「大丈夫ですか?」

マスターが慌ててタオルを差し出す。
中身は半分ほどに減っていたとはいえ、その大半が膝にこぼれている。
拭いても多少の慰めにしかならないだろう。
それよりも、この液体が絨毯を汚す前に拭き取ってしまわなければ。

「マスター、すみません。お店を汚してしまって・・・・・・」

割れたガラス片で手を切らないように注意しながら、寄せ集める。

「そのままで構いませんので、ご自分の方を」
「けど・・・・・・」


「奈々」


え?

「タ、タル、さん・・・・・・?」

今、なんて・・・。

「いいから、君はマスターの言うとおり自分の方をどうにかすべきだ」

片づけなら俺がしておくから、と背中を押されてしまっては、従わないわけにもいかず。
後ろ髪を引かれる思いで化粧室に飛び込んだ。
化粧室の鏡に、自分の姿を映す。

(タタルさん・・・・・・今、『奈々』って言った・・・・・・?)

聞き間違いかもしれない。
慌てていたから呼び捨てになっただけかもしれない。
けど。
そうだとしても。

(やだ・・・・・・恥ずかしい・・・・・・)

三十も過ぎてこんな反応をしている自分の方がよっぽど恥ずかしいのかもしれないけれど。
それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

(だって、いつもは『奈々くん』って呼ぶのに、さっきだって呼びかけた時はくん付けだった。なのに・・・・・・何でこんな時ばかり・・・・・・)

タタルさんのことは、良くわからない。
いつだって突然で。
いつだって独りよがりで。
一人で決めて。
一人で結論づけて。
私はそれに慌てて着いていくことしかできない。 


『結婚しよう』


タタルさんはそう言った。
「結婚しようか?」でも「結婚してくれないか?」でもなく。
疑問符などを付加させず、まるでそうあるべき当然のことのように、言った。
たとえば私がノーと言う可能性を、タタルさんは考えなかったのだろうか。
一抹の不安すら、抱かなかったのだろうか。
結果として私は肯定の意を示したのだから、タタルさんの行動は正しかったのだけれども、順番としてはやはり間違っている気はする。

(私たちは付き合っていたわけじゃない。たまに逢って、たまに一緒に飲んだり、旅行に出掛けたりしただけ。それってつまり、仲の良い友達の域じゃない?)

あぁ、そういうことか。
どうして私がここまで動揺しているのか、ようやく自分の中で得心いった。

(これは、戸惑い)

一足飛びに飛びすぎた関係性に、私は戸惑っているのだ。
大学時代の先輩後輩を経て、同じ地区で薬局員として働くだけの関係。
偶然に再会し、時々お酒を飲みながら語らう関係。
私たちの間にあったのはそれだけだったのに。

(いきなり、結婚だなんて・・・・・・)

ましてや、自分はそれに対して即答した。

(どうなっているのかしら、私たち・・・・・・)

友達と言うほどの親しさもなく、かといってただの学生時代の先輩後輩で割り切るには踏み入りすぎている。
きっかけとしてだけならそんな始まりは多いのだろうけど、まさか皆が皆そこから結婚とまでは話は飛ばない。
それはあくまでも恋愛期間なり恋人の期間を経た上での結末だろう。

(私はこれから先も、こうやってタタルさんに振り回されるの?私ばかりが一人やきもきして、不安になって、心を浮き沈みさせるの?)

ちょっとだけ、憂鬱な気持ちになる。

(そんなの、なんだかずるい。私だって、タタルさんのこと・・・・・・)

我ながら大胆なことを考える、と思った。
けれど、タタルさん相手ならばこれくらいでなければいけないとも思った。

(三十路越えまで待たせた罪は重いんだから・・・・・・っ!)

スカートが吸い込んだミモザを叩き出しながら、私は一つの決意を胸に宿した。


 *


「お待たせしました」

ようやく濡れたスカートの体裁を整えて出てきた時には、壊れたグラスやらなにやらはすっかり片づけられていた。

「あぁ。大丈夫か?」
「はい。なんとか。マスターも、お騒がせしてしまってすみませんでした」
「いいえ。お怪我が無かったならそれだけで」
「本当に、すみません」

 深々と頭を下げた私に、マスターはやんわりと笑って「お気になさらず」と告げた。

「じゃぁ出ようか。流石にそのままで呑むというのはあんまりだ」
「そうですね」

タタルさんは私のスカートを一瞥し席を立つ。
オレンジ色は付いていないだろうけど、濡れた痕はしっかりと付いてしまっているのだ。
タタルさんの言うとおり、このまま飲み続けるというには残念な格好。
ここは素直に従うべきだと思い、タタルさんの後に続いた。
途中、ハッと気づき扉をくぐろうとするタタルを呼び止めて振り返る。

「あの、お勘定を」
「既に頂いておりますので」
「え?」

バックに伸ばした手を、マスターがやんわり制した。
私たち以外に誰もいないこのお店で、代わりに支払いをすることが出来る人などただ一人。
その人を今一度振り返ったら、既に扉の外側に立っていた。

「行こう」
「あ、待ってください。マスター、今日は本当お騒がせしてしまってすみませんでした」

今度は軽く会釈をするように頭を下げ、慌ててタタルさんの後を追う。

「またのお越しを、お待ちしております」

どう言うわけか楽しそうな響きのマスターの声は、厚い扉に阻まれて最後までは聞き取れなかった。





カル・デ・サックを後にして、大きな通りまで少し歩く。申し訳なさも相まって、来た時のように腕を組めない。

「タタルさんも、すみませんでした。折角誘ってくださったのにこんな風にしてしまって」
「構わないよ」

尻すぼみになる声を気にする様子もなく、タタルさんは素っ気なく答えた。
それ以上、これといった会話もなく、ただ歩く。

少し、気まずい。

それでも、私はこの胸に宿した決意に従うと決めたのだ。
スゥッと小さく深呼吸し、タタルさんに意見を述べるべく気持ちを引き締めた。

「あのっ、タタ・・・・・・」
「通りに出たらタクシーを拾おうか」
「え?」

唐突に口を開いたタタルさん。

「君のその格好では電車は避けたいだろう」

確かに、電車に乗るにははばかられる格好だけれど・・・・・・、タクシーで横浜まで帰れと言うこと?
そんなの、あんまりすぎる。

「あ、あのっ!」
「ん?どうした?」
「私・・・・・・」

意志は固めたはずなのに、言葉が、続かない。
まだ私は怖がっているんだ。
タタルさんの言葉が信用できないのとは違うけれど、確固たるものが無い不確かさが言葉を続けることを渋らせる。

「もう、少し・・・・・・このまま・・・・・・」

かろうじて、告げる。
違うのに。
そうじゃないのに。
私が本当に言いたいことはこんなことじゃないのに。

「そうか。じゃぁ、少し歩こうか」
「はい・・・・・・」
「寒くはないか?」
「大丈夫です」

タタルさんは歩みの方向を変えた。
明るい大通りを避け、一本裏の若干暗い道を選んでくれたらしい。

「・・・・・・不思議な気分だ」

ぽつり、零す。

「どうしてですか?」
「君とは散々話して来たはずなのに、いざ思ってみたら何を話せばいいのかわからずに困惑している」
「・・・・・・・・・ふふふっ」
「奈々くん?」
「ごめんなさい。でも、タタルさんもそうなんだなって思ったら、つい」
「も?」
「私も、同じです。いい年してどうしたらいいのかわからなくて、緊張、してました・・・・・・」
「・・・・・・そうか」
「はい」
「俺のせいかな」
「そうです。タタルさんのせいです。おかげで、今日は全然お酒が飲めませんでした」

どうしてくれるんですか?と、けしかける。
タタルさんはあからさまにドキリとした表情を浮かべた。
「あ」とか「いや」とか、一人で逡巡したのち。
おずおずと申し出る。

「なら・・・・・・うちに、来るか?」

道が暗くて顔色はよく見えない。
ただ、ビルの隙間から差し込んだネオンが一瞬、タタルさんを照らした。
これまでに見たこともないくらいに赤に染まった頬を映し出した。

「いやっ!君が嫌なら構わないんだが!幸いまだ終電までは大分時間もあるし、服が乾くまで飲み直すのも悪くはないかと思ったんだが・・・・・・」

ワタワタと慌てるタタルさんなんて珍しい。
今日は珍しいことの大売り出しだ。

「どう、・・・・・・だろうか?」
「えぇ、是非お邪魔します」

クスクス漏れ出てしまう笑いを堪えながら答えると、タタルさんは拗ねたようにそっぽを向いた。
もっと重大なことはさっさと自分一人で決めてしまうのに、こんな単純なことにいちいち手を焼くギャップ。
それがおかしくてたまらない。
いつまでも笑い止まらない私を置いて、一人大通りへ出ようとしている。

「待って下さい!タタ・・・・・・」

言い掛けて、止める。
もう一度考える。
呼ぶべきはその名だろうかと。
今このタイミングで言うべきなのは他の名前じゃないのか、と。

「・・・・・・たかし、さんっ!」

全く呼びなれないその名前。
彼の本当の名前。
だと言うのに、私もタタルさんも盛大に気恥ずかしくなってしまった。

「・・・・・・いや、君が、そう、呼びたいのなら・・・・・・構わないの、だが・・・・・・」
「あの、いえ・・・・・・ほんの、冗談で・・・・・・」
「そうか」
「すみません」
「俺もしたから、おあいこと言うことで・・・・・・」

『奈々』と呼んだあの響きが、脳内でリフレイン。
思い出しただけで顔から火を噴きそうだった。

「わざと、だったんですね?」
「あ、いや・・・・・・」

しどろもどろになりながら、それでもしばらく間を置いて「あぁ」と短く答えた。

「私、すっごい恥ずかしかったんですから。急にあんな風に呼ぶから」
「すまない」
「・・・・・・もう一回、呼んでくれたら、許します」

ふとした思いつきをそのまま口にしてしまう。
言われたタタルさんも、言った私も恥ずかしくて、思わず顔を俯けた。

(私ったら、なんてことを言ってるのかしら)

自分から呼んで欲しいなんて。
アルコールも入っていないのに、これじゃぁ酔っぱらいと同じだわ。
ちらり、タタルさんの方を見やれば、がちがちに固まりながらも口元ではなにやらぶつぶつと唱えている。
戸惑いと羞恥心から堅くなりつつ、不器用に手をさしだして。

「奈々、行こうか」

こちらもやはり私と同じように、まるでアルコールをしこたま飲んだ後のような赤い顔で、言った。

「はい」

手をするり無視して、伸ばした腕に自分のものを絡めて、寄り添う。

遅い春から香り立つ、心地よい酩酊感に誘われるがまま。
その夜、私はタタルさんのマンションにお邪魔した。





結局、酩酊感が心地よかったのでゆっくり時間をかけてタタルさんのアパートまで二人で歩いてきてしまった。
着いて早々、相変わらずうず高く積まれた本の山を部屋の端に積み上げ直しながら、タタルさんが申し出る。

「どうする?俺のでよければ何か着るものを貸すが」

春めく夜風に吹かれ、半ば乾きかけた自分のスカート。
手で湿り気具合を確かめつつも、どうするかは初めから決めていた。

「お借りします」

適当に、かつ、持てる衣服の中から比較的まともでできるだけよれていない新しめの白いティーシャツと、カーゴパンツが差し出された。

「もし濡れたのならシャワーも使うか?」
「そうですね。実は足のところべたべたしてて。助かります」
「なら、タオルはこれを」
「使い方わかるかい?」
「多分、大丈夫です」

何かの折に覗いたことがあるような気がする。
どちらにしても、さっと足の汚れを流し取るだけなので問題ない。

「それじゃ、ちょっと使わせて貰います」
「あぁ。適当に使ってくれ」

そそくさと洗面所兼脱衣所へ。
自分の服に手をかけ、頭に浮かべているあまりにも大胆な行動にまるで他人事のように苦笑する。

(沙織が聞いたら卒倒するかもしれないわ)

いつまでも進展しない私たちを、私たち以上に心配応援していたのはすぐ先に結婚を控えた妹だ。

(それとも、あの子のことだから「よくやった!さすがはおねぇちゃん!!」なんて誉めてくれるのかしら?)

結婚準備で忙しくしているけれど、今度ゆっくり時間が出来た時に。
いや、時間なんて無くてもあの子は何とかその時間を捻出しようとするだろうから、本当、近いうちに。

(・・・・・・それで、期待するほどのことが起こるかどうかは別の話だけれど)

下着にも、手を伸ばす。
自分の家でないのに裸になるというのは、なかなかどうして不思議な感覚。
脱いだ服は下着も全部まとめて脱衣籠に入れさせて貰い、風呂場に足を踏み入れる。
慣れない風呂場というものは、それも、タタルさんが日々使っている場所なのだと思うと、無性にドキドキした。
手早くミモザを零して汚してしまった大腿部を流す。
ストッキングを履いていたので拭うだけではどうにもならなかったのだ。
ようやくすっきりすることが出来た。
ついでに、ちょっと冷たいシャワーに切り替えて火照った体を冷やす。

「よし・・・・・・っ!」

キュっ、と引き締まった体と思考。
タオルで体の水分をぬぐい取りつつ再び脱衣所に。
借りたティーシャツを被る。
カーゴパンツは、ウエストが緩すぎてずり落ちてしまったので諦めた。
幸いというかなんというか、ティーシャツは股下まで届いていたのでぎりぎり許容範囲と言うことにしておく。
タタルさんは決して太い訳ではない。
むしろ細いくらいだけれど、やはりこれが男女の体格差と言うことなのだろうか。

さぁ、本番はここから。

「っ、やるわよ!」

自身が脱いだ服を、手に取る。
ゴクリ唾を飲んでから、えいや!と隣にあった洗濯機にまとめて投げ込みスイッチを押す。
とたんに鳴り出す、ものすごいガタガタ音。

「え?え?」

予想外の轟音に、私自身が一番驚いてしまった。

「奈々くん?」

洗面所の扉をタタルさんが叩いた。

「あ!あのっ・・・・・・!」
「開けても大丈夫か?」
「ハイ。あの、私・・・・・・!!」

確認してから扉が開けられた。
「またか」なんていう表情をしながらタタルさんが入ってくる。

「洗濯機の調子がすこぶる悪くて、ちょっとぶつかっただけで勝手に動くことがある・・・・・・・・・・・・っ!?な、奈々くんっ!!!」
「えっ?・・・・・・・・・っ!」

そして私は自分の格好を思い出す。

「きゃぁぁぁっっ!?」

確かに決心していたのだけれど。
それでも一瞬別の事柄に意識を奪われ、思いも寄らぬタイミングだったため羞恥心がこみ上げてしまった。
その場に座り込んで限界ぎりぎりまで裾を引き下げて隠す。

「なっ、なんでそんな格好を・・・・・・!」

慌てて背中を向けた。お互い背を向ける形に。

「あの、貸していただいた下のが、緩くて・・・・・・」
「と・・・・・・とりあえずコレでも羽織っておいてくれ。目のやり場に困る・・・・・・」

私がシャワーを浴びている間に着替えたのだろうか?
タタルさんが肩に掛けたのは、エメラルドグリーンの、タタルさんが愛飲しているギムレットを思わせる色の、ジャージだった。
しかし、それが私の肩にかかる直前で一度、手が止まる。

「な・・・・・・・・・・・・奈々、くん・・・・・・?」
「・・・・・・・・・」

バレて、しまっただろうか。

「つかぬことを聞くが・・・・・・」
「・・・・・・はい」
「その、・・・・・・下着、つけているか・・・・・・?」
「・・・・・・いいえ・・・・・・」
「君は、何を・・・・・・」
「だって・・・・・・」

こうでもしないと、口実を作れなかったから・・・・・・。
ほんの少し語らって、「それじゃあまた今度」なんて展開はもう嫌だから。

「下着も全部、洗いました。私、今晩帰りませんから」

思い知ればいい。
疑問を投げかけるでもなく、一方的に決めた決定事項に振り回される気持ちがどんなか。

「・・・・・・君って人は・・・・・・」

タタルさんも一緒にへたり込む。
掛けられたジャージの前を掻き合わせるようにしてから、私は向きなおった。

「だって・・・・・・終電で帰れだなんて、寂しいから・・・・・・」

折角、やっと、ここまでこぎ着けたのに。
少しでも長く一緒にいたいとはタタルさんは思わないの?



「そんなことを言われたら、ますます君を帰し難くなる」



自分でも何をするのかわからないのに。
君をどうしてしまうかわからないのに。
だから君をそのまま横浜に送ってしまおうとしたのに。
そんな格好で。
そんな顔で。
求められたら・・・・・・。

「初めから、返す気なんてなかったよ」

本心を、言ってしまうじゃないか。
ロマンチックなやりとりをするのがベッドの上じゃなくって、洗面所の床の上だなんて。
つくづく俺たちはムードというものに欠けるらしい。

「部屋の方で待っててくれ。俺もシャワーを浴びる」
「あ、・・・・・・ハイ・・・・・・」

今の今まで自分が着ていたものから伸びる、彼女の白い足を出来るだけ見ないように心がけて扉の向こう側に見送った。
着ていたジャージを脱ぎ捨て、籠に投げ入れる。
横でガタゴト盛大な音を立てる洗濯機の中で彼女の衣類が洗われているかと思うと、なんだか不思議な気分になった。
頭からザバリ、熱いシャワーを浴びる。
そして、ふと気がついた。

「しまった。替えの下着もタオルも忘れた・・・・・・」

彼女に取って貰うか、それとも自分で取りに出るか。
こんな時まで頭を悩ませるのはどうしようもないことで。

「らしいというかなんというか」

彼女の使ったタオルが目に付いたが、それを使うのは言いしれぬ背徳感があった。
仕方がない。
濡れたままの体をジャージに押し込む覚悟を決めて、俺はもう一度熱いお湯を頭に被った。


□■□


温かい日差しを感じながら、目を覚ます。隣にはタタルさんの姿も。

(まさかこんな日が来るなんて)

自分でも、まだ夢なんじゃないかと疑ってしまうくらいだ。
長い体を小さく丸めて眠る姿は、今はもういなくなってしまった愛猫、玉三郎を思わせた。
生前あの子によくして上げたように、額の辺りを擽ってやる。
もぞもぞと身を捩り、緩慢に開かれた黒々とした瞳。

「なんだ・・・もう起きたのか」
「だって、すごくいいお天気だったから」

タタルさんはカーテンの隙間から覗く太陽を、目を細めて見た。

「本当だな」
「洗濯物も良く乾きそう」

と言ったところで、私はあることを思い出す。

「あっ!」

慌てて布団から這い出て狭い部屋を駆ける。

「奈々くん?」
「あ・・・あぁ〜・・・やってしまった・・・」
「どうした?」

後を追ってきたタタルさんが後ろから覗き込む。

「洋服・・・干すの忘れてました・・・」
「あぁ・・・それはやってしまったな・・・」

洗濯機の中では私の洋服がしわくちゃになって固まっていた。

「もう一度洗うしかないな」
「ですね」

少しだけほぐしてから再びスイッチを押す。
同時になりだすガタゴトという轟音。
五月蝿い音にかき消されそうな小さな声で。

「俺たちももう少しだけ、このままでいようか」
「・・・ハイ」

春めく日差しを浴びながら、目覚めの口付けを一つ落とした。




それからとこれから








あの日のチャットメンバーに捧げる。

2011年10月23日 スパークにて突発的に作って無料配布したタタナナ本の本文です。



エメジャーの登場率が少なくてサーセン。

『伊勢』本編の直後の妄想文でした。

こんなやり取りがあったらいいなー、と。



これ以上はR−18付きそうだったのでひとまず自重しました。

折を見てその辺の話も書きたいです。

とかいって、膝つき合わせたままもだも出しているだけかもしれないけれど(笑)



10月14日のsuzeさん宅のチャットメンバーに限り、本文・背景イラストお持ち帰り自由です。

煮るなり焼くなりしてください!



合言葉は? \エメジャー!/

肌ジャーは? \正義!/



2011/10/23 









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