〜第1章 第2話〜



男の背中で僕は目を回していた。

「ちょっ!何だよこれ!」

思わず叫び声を上げる。

「フリットだといっただろう」
「だからソレが何か聞いてるんだよ!」
「こういうことだ」

こういうことと言われても、訳がわからない。
世界が勝手に後ろに飛んでいく。
かといって舌を咬んでしまいそうなほど早く走っているという感覚でもない。
第一振動が全く無いなんてことがあるだろうか。
わからないことだらけだ。
唯一つ解かっていることは、今僕はこの手を離したらものすごい勢いで振り落とされて酷い大怪我を負うだろうってことだけ。
物凄く不本意では有るけれど、僕は今一度両手をしかっと握りしめた。

ものの五分も経たぬ間に病院についてしまった。
本当ならどんなに全力で走っても二十分はかかる道程なのに、だ。

「さて、小僧の病室は何処かね」
「確か三階の端から二番目の部屋」
「ふむ。流石に正面から堂々と入るわけにはいかんからな。窓から入らせてもらうか」
「窓に鍵が掛かってたら?」
「鍵などバンパイアには関係ないのだよ、シャン君」
「?」

言葉通り、壁伝いに僕を背負って窓まで登ると、指をぱちんと一つ鳴らした。
するとどうだろう。
カチリ、軽い音を立てて掛け金が外れたではないか!
もう僕はいちいち驚いていられなかった。
この男といたらいくつ心臓があっても足りやしない。
男におぶさったまま僕はスティーブの病室に侵入することに成功した。
ようやく視界が目まぐるしく変わる状況から開放され、男の背中から滑り落ちるように降りるとスティーブの元に駆け寄った。
体中からいくつものチューブが伸びていて、見ているだけで痛々しい。

「スティーブ・・・・・・」

小さく声を掛けるが身動ぎ一つしてはくれなかった。
瞼は硬く閉ざされているままで、握った手はまるで血が通っていないかのように冷たい。
まさか間に合わなかったのか?もうスティーブは・・・・・・

「ねぇっ!?スティーブは助かるの?」
「・・・・・・思っていたよりも毒の回りが早いな。どれ・・・・・・」

男は僕を押しのけ、スティーブの身体をいろいろと調べ始めた。
脈を取ったり、無理矢理開いて目を確認したり、口内を覗いたり。
まるで医者のようだ。

「・・・ふむ・・・」
「ふむ、じゃわかんないよ!スティーブは助かるんでしょ!?」

そうじゃなけりゃあんたとの約束なんて反故にしてやるんだからな!
あんたなんか血に餓えて干からびて死んでしまえばいいんだ!!

「物騒なことは冗談でも言うもんじゃないぞ。
 お前があまりにもうるさいから結論から言ってやる。
 こやつは『まだ』大丈夫だ。生きておる」

僕は男の言葉の端にある棘を聞き逃さなかった。

「・・・『まだ』・・・?」
「あぁ。お前が決断をあれ以上先延ばしにしていたら危なかったがな。
 だが本当に危険なのはこれからだ」

そう言って男は恥ずかしげも無く羽織った赤いマントの中に手を忍ばせ、小さな小瓶を取り出した。
毒蜘蛛の血清だ。

「猛毒の解毒薬というのは、はっきりいってそれ自体が身体には毒でな。
 ほんの少し量を間違えただけであっという間にあの世行きだ」

小瓶を揺らすと、透明な液体がぴちゃりとはねた。

「御託はいいから。あんたはその量をきちんと見分けられるんだろう?」

僕が知りたいのは、あんたがスティーブを助けられるのかどうかということだけ。
出来ないのならあんたに用なんてないんだ。

「もちろんだ。ソレが出来なくては血清を持っていても役に立たんからな」
「ならグダグダ言ってないで早くスティーブを助けて」
「ふん。生意気な口をききおって。
 本来ならば手下としての振る舞いを注意せねばならんところだが・・・・・・まぁいい」

一度小瓶をベットサイドに置くと、ふうぅぅぅ、と深く息を吐き出し、続けて首を数回コキコキと鳴らした。

「これから我が輩が何をしても、いいと言うまで絶対に話かけるんじゃないぞ。
 少しでも集中力を欠けばこやつの命は無いと思え」

僕からは男の表情を窺い知ることは出来なかったけれど、瞬間的に病室内の空気が変わったことは解かった。
ピンと張り詰め、既に声を上げることすらできない雰囲気がそこら中に漂っている。
無言で僕は一度頷いた。
背中を向けているので男から見えているはずは無いのに、僕の頷きを確認したかのような絶妙のタイミングで

「よし、それでは始めるか」

男は小瓶を手に取った。
それから男はスティーブの頭の上に屈みこみ、首筋にとがった爪を突き立てた。
思わず声を上げそうになったけど、慌てて手で押えて堪えた。
気配を察したのか男が振り返る。
忌々しそうな顔をされたけど何も言わずスティーブに視線を戻した。
男が振り返った時、首元を伝う赤い血が視界に入った。
すぐに男が向き直ったので見えたのはほんの一瞬だけだったけれど、僕の右手の指先がずきりと痛んだ。
五分ほどして、ようやく男は体を起こし、額の汗を拭いながら大きく息を吐いた。
男が何をしたのか、詳しいことはわからなかった。
上手い具合に男の身体で隠れてしまったからだ。

「もういいぞ。これで終わりだ」
「スティーブっ!」

男を押しのけてスティーブの手を握った。
相変わらず手は冷たいままで、本当に助かるのか不安がよぎる。

「心配せんでも良い。こやつは間違いなく助かる」
「でも・・・・・・っ!」
「そんなすぐには効きやせん。
 何事も変化は徐々にするほうが負担は少ないんだ。
 そうだな・・・・・・明日の昼過ぎには毒は完全に抜けとるだろうよ」
「本当だろうね?」

疑いの目を投げかける。

「我が輩のことを疑うのは解からんでもないが、バンパイアというのは誠実な生き物なんだ。嘘なんかつくものか」

どうだか。
あんたがそんなことを言ったって信用できる要素なんてどこにもありはしない。

「・・・・・・スティーブ・・・・・・」

冷たい手を握り締めても友人は答えてくれない。

「今晩はどんなに声を掛けたところで届きはせんぞ」
「・・・・・・わかってるよ・・・・・・」

それでも僕は声を掛けずにはいられなかった。
大事な親友をこんな目に合わせてしまった罪が消えるわけじゃないけれど、何度も何度も親友の名を呼ぶ。

「あまり声を出すな。病院のものに気づかれたらどうする気だ」
「・・・・・・」
「そろそろ引き上げるぞ。用が済んだなら長居は無用だ」
「やだ・・・」
「我がままを言うな」
「スティーブが目を覚ますまでここにいる・・・・・・」
「・・・・・・」
「帰るならあんた一人で帰ればいい」
「・・・・・・」
「・・・・・・スティーブがちゃんと目を覚ましたら、あんたに僕の血をあげるから」

だからそれまでは放って置いてほしい。
僕はまだ、この男のことを頭っから信用したわけではないんだ。
意味はないと解ってなお、僕はスティーブの手をぎゅっと握る。
もしかしたら今すぐにでも目を覚ますかもしれない。
その時、一番に謝りたい。
こんな危険な目に合わせてしまってごめんと、きちんと謝りたい。
助かる兆しが見えた今、片時だって離れていたくは無い。
ところが、背後の男は「おいおい」と声を上げる。

「シャン君よ。それは約束が違うというものだ」
「何がだよ」
「我が輩とお前が取り交わした約束は果たしてなんであったかね?」
「・・・・・・僕があんたの・・・」

エサになれば、そう言おうとして口をつぐんだ。
例えそれが事実だろうと、自身の存在がこんな男の『エサ』であるとは認めたくなかったからだ。
言葉を訂正して続ける。

「・・・・・・あんたに血をあげれば、スティーブを助けてくれる、だろ」

何も違えちゃいない。
なのに男は鼻で嗤う。

「その前提が間違っているのだよ」
「なんだって?」
「良く思い出せ。我が輩はお前になんと言った?」
「・・・・・・・・・」
「我が輩の記憶違いで無ければ、『手下になれ』そう言った筈だぞ?」
「・・・・・・それは・・・・・」

確かにこの男はそう言った。

「お前の血を頂くことは手下としての役割の一端に過ぎん」
「そんな・・・・・・」

まるで後頭部を鈍器で力いっぱい殴られたように、頭がくらくらする。
目の前が真っ暗になったのか真っ白になったのかも僕には良くわからない。

「我が輩に血をやればそれでいいと思ったのかもしれないが、それはお前の勝手な勘違いだ。
今更『ちょっと待て』などと言うなよ。
我が輩はきちんと説明してやった。
お前に選択肢も与えてやった。
その上でお前はイエスと答えたんだからな」

もはや反論の余地すら与えてはくれなかった。
何てことだ。
僕はとんでもない決断をしてしまった。
軽率な行動が、浅はかな考えが、まさか自分の運命を自分で変えてしまうほどのものだったなんて・・・・・・。

「約束通り、我が輩はこの小僧を助けてやった。
 今度はお前が約束を守る番だ。
 手下は手下らしく我が輩の行くところについて来い」
「・・・・・・家族は・・・・・・?」
「残念だが捨ててもらわねばならんな」
「皆納得してくれるわけが無い」
「納得しようがしまいが、そういう約束だろう?
 何度も言うようだが、我が輩が無理強いしたんじゃない。
 お前が、お前自身がそう決断したんだ」

子供だろうが大人だろうがそんなものは関係ない。
人という生き物は自分の発言に対して、自分の行動に対して、それ相応の責任をきちんと負わなければならんのだよ。
男は言った。
ということは何か。
僕が家族を捨てなければいけないのは、自業自得なのか?
それだけのことを僕はしたのか?
僕の罪はそんなにも重いものなのか?
わからない・・・・・・。
どうしたらいいのかも、
どうすべきなのかも、
何もわからない。
その時

コンコン

「スティーブ君、入るわよ」

小さく囁く声がした。
担当の看護師さんだ。
僕らの声を聞きつけたのか、ただの夜の回診に回ってきただけなのか、それはわからないが、見つかったら厄介なことに変わりは無い。

「いかん。少々騒ぎすぎた。ひとまず引き上げるぞ」
「あっ!」

僕が何か言うよりも早く、男は片腕で僕を小脇に抱えると窓枠に足を掛けた。
今がどんな状況であるかは僕にも十分わかっていたから抵抗するつもりは無かった。
それでも後ろ髪を引かれる思いで、僕は抱えられたまま親友を振り返る。

「スティー・・・・・・」

言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
だけれど
視界から消える最後の瞬間、スティーブと目が合った。

そんな気がした。





瞳に映ったのは、現か幻か







※こちらの背景は Sweety/Honey 様 よりお借りしています。




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